Dr.コラム

2012年4月 コラム(17)
理事長 大頭 信義

 うつし世の はかなしごとにほれぼれと
遊びしことも 過ぎにけらしも 小泉 千樫 (大正14)

 秘めごとの恋をはじめ、多くのはかなごとに夢中だった日々への、愛惜の想いが沁みてきます。
 その現実を10年も経て、自分の眼前に再現されると、ひとはどのような想いにとらわれるのでしょうか。

 4月7日、医療活動に熱心な友人に招かれて、肥前長崎に出向いて、在宅療養について話をする機会を与えられました。医療機関や市民の方々が、多数お集まり頂きました。
 その翌日、長崎のいくつかの「坂」を巡りました。オランダ坂、だらだら坂、どんどん坂、そして大浦天主堂の裏にある祈念坂、・・・ 撮影をしながら巡りました。

 そして、シーボルト記念館にも足を運びました。そこで改めて、日本の近代化に大きな足跡を残したこのドイツの天才児と、彼を取り巻く人間模様に感動しました。
 シーボルトの祖父も父も、ドイツ・ビュルツブルグ大学の教授職を努めた名門の出身だった。陸軍病院の外科少佐となった彼は、27才の若さで、江戸幕末の鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となり、外科的な診療の傍ら、鳴滝塾で講義をした。
 鳴滝塾で学んだのは、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など日本の近代化に尽くした各藩からの熱血の士50人以上に及ぶ。幕末頃には坂本龍馬や吉田松陰など多くの名士が道を求めてこの地を訪れました。

 個人的な面では、彼は愛妻となった楠本滝との間に1女子を持った。これが将来長崎で成長し、日本で女性初の産科蘭方医として活躍した楠本いねであった。
 シーボルトは、医師としての活躍以外にも、植物学者、東洋の小国日本をのちに世界に紹介した日本学者でもあった。
 1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となった(シーボルト事件)。
 オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請した。48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。3男2女をもうける。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。

 再来日を迎える港の岸壁には、日本、オランダの行政官や、鳴滝塾の知友が沢山出迎えた。 
 そして、その人波の背後には、そっとたたずむ、いねの手を必死に握っている滝の姿があったという。

 植物の押し葉標本は12,000点、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で『日本植物誌』を刊行した。その中で記載した種は2300種になる。植物の学名で命名者がSieb.et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種である。アジサイなどヨーロッパの園芸界に広まったものもある。
 動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、『日本動物誌』として刊行された。日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定している。

 アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。ということは、彼は日本での妻のことを、日頃、「おたきさん」と呼んでいたのだろうかという想像を抱かせる話ではないでしょうか。

 長崎の地の浪漫性につられて、私まで情緒的になってしまいました。 シーボルト記念館での掲示を読みながら、幕末の時に身を委ねることが出来ました。

 「花みずき」97号を手にすることが出来ました。 今回は、高齢者の自立とその精神的活動を話題としました。
 お時間があります折に、目を通して頂くと嬉しい限りです。