Dr.コラム

2015年10月 コラム(25)

世中(よのなか)は、 鏡にうつる蔭にあれや
       あるにもあらず なきにもあらず

                      源 実朝 (金槐集  1219年頃)

 
  実朝の心の深奥では、将軍の地位にあってさえ、そこまで孤独な想いの日常であったのだろうか。世の中の諸象が、「あるにもあらず、なきにもあらず」というのである。

 中世期最大の詩人のひとりであり、学問と識見とで当代に数すくない実朝の心を訪れているのは、まるで支えのない奈落のうえに、一枚の布をおいて坐っているような境涯への覚醒であった。(吉本 隆明)
 なぜ、その時代の最大権力者であり、何でも望めば叶えられたであろう立場にありながら、彼の心はそこまで空虚であったのだろう。

 次々と、新しい患者が診察室を訪れる。 
物見遊山に来てくれるのではない。誰もが、 「老い」の苦悶を口にしたり、あるいは、決定的な解決しようのない病魔にとりつかれた運命を嘆く言葉に包まれた日々を語ってくれる。

 その日々は、どんな苦渋で満ちているのか、どんな嫌悪の瞬間の連続なのかと考えてしまう。

 そして、不可思議なことではあるが、そのお宅に往診して訪ねてみると、その閉塞感は、診察室で想像したものとは異質なものであると判明して、少しほっとする。

 誰もが、どうして全くは閉塞せずに居られるのだろう。
自分の領域をそれなりに形成し、自己主張の場を引き寄せながら、なんとか自分らしさの世界を形成できているなと感じることが多い。私のような侵入者には「新鮮」と言えるような場を形造って居られるのである。この人も、またこの人も、そう逞しいなと感じさせるものを発露している。 

 現在、70軒のお宅にお邪魔している。昨年は、往診の後に終末を迎えることとなった方々が、72名になった。
 誰もが、それぞれを「支える」家族がいたり、日々の営みへの「もくろみ」がある。その様態の多様さに驚嘆しながら、訪問を続けようと思う。

  「花みずき」2015年秋号 111号をお届けします。お暇な折にご一読、お願い申し上げます。

平成27年10月
大頭 信義