機関誌「花みずき」

私の見てきた自宅での看取り

クリニック看護師 植松

 私は6人家族の家庭に育ち、祖父母、父母たちを自宅で看取り、いつかは自分も自宅で死を迎えたいと願っているひとりです。
 小学校6年生の2月の寒い日、いつものように「行ってきます」と祖父に声をかけ「おう!」という返事を聞いて学校に行きました。授業が終わって家に帰ると、家の前には近所の人や親戚の叔父や叔母が出たり入ったりしていました。「なんだろう?」と家の中に入ると、母が「おじいちゃんが…」。家の座敷には祭壇が飾られ、仏壇の前には祖父が白い布を顔にかけられ寝かされていました。寝ているようで、亡くなったとは思いませんでした。朝私が学校に行った直後、母が声をかけるとその時にはもう返事をしませんでした。母は、村のお医者さんを呼んだり、父の勤務先に電話をかけたり、親戚に連絡を取ったり、大慌てだったそうです。子供の私は門前に並ぶ樒の数を、姉やいとこ達と数えていました。

 その頃の葬儀はというと、自宅で行い、隣近所のお世話になって寺宿、非時宿(会葬者に出す食事処)、受付などお願いしました。2月という寒い中、夜徹し一斗缶に薪を燃やし、通夜・葬儀が執り行われました。葬儀後、四十九日間毎日お経をあげ、七日参りには親戚が来てみんなで一緒にお経をあげて、いつの間にかお経も覚えていました。祖父の死は子供にとってはお祭りのようなものでした。

 祖父の死からほぼ10年後、祖母は2年間寝たきりで、母が毎日布のおしめを交換したり、食べられるものを作り、叔母たちが交代で泊まり看病していました。私も看護学校2~3年生だったので学んだことを母達に伝え、一緒に体を拭いたり、ご飯を食べさせたりしました。その頃、認知症とは呼ばれていませんでしたが、今思えば便を廊下や壁に塗っては、「私してまへん、誰かがしたんやろ」等、訳のわからない事を言っていたような気がします。母はいつも献身的に祖母に仕え、文句ひとつ言いませんでした。それだけしていても、布おむつやおしめカバーのビニールシートを使用したことにより、大きな床ずれを作ってしまいました。最期は祖父と同じ、村のお医者さんに看取ってもらいました。

 父は若い頃胃の手術を村の診療所で受け、また私が乳幼児のときに、肺結核に罹り神戸の神港病院で肺の手術を受けました。
私が高校2年生のときには、胆石で元国立姫路病院で2度の手術をして生死をさまよい、学校の帰りに毎日病院に寄り、母がお風呂に入りに帰る時間は私が付き添っていました。母は3ヶ月間泊りがけで付き添っていましたので、家事が出来ず、親戚の叔母達が交代で付き添いをするためにシフトを組んでくれたりもしました。術後は慢性肝炎で通院をしながら、40年間神戸まで通勤し満願退職しました。退職後は村の事や畑仕事で余生を過ごしました。私が看護師になったのを喜び、運転免許をとり母の手作り弁当を持ってドライブするのが唯一の楽しみだったようです(亡くなった後で村の人に聞きました)。

 晩年はパーキンソン病に罹り、好きなお酒もひかえ、自宅で母と一緒にクルミの殻を2個持ち握力の運動や箸で豆を挟んだり、階段にひもを通して滑車のようにして腕のリハビリをしていました。しかし、私達夫婦が結婚4年後に同居してから、一緒にお酒を飲むようになり、今までゆっくり進行していた肝臓がんが一気に悪化し黄疸や腹水が溜まりました。強気だった父も覚悟していたようで、5月の連休前の受診では主治医より「入院の部屋を予約しておこう」、「連休中何かあったらいつでも電話して」という言葉をもらいました。その帰り道(夫に頼みまっすぐ家に帰らず)、建設中の姉の家がほぼ出来上がっているのを見て、また町内をぐるっと一周して家に帰ったものでした。 平成2年5月、こどもの日の夕方、孫達とカレーを食べていると、一番上の孫と母が父のそばにいてその孫が「救急車を呼んで!」という泣き叫ぶ声に、みんなで飛んで行き、心臓マッサージしながら救急車を呼びました。国立病院の主治医の先生が、家に向かって下さり、ちょうど救急車が来た時に先生が到着して、孫達や親戚の見守るなか旅立ちました。

 退職した後「自分の葬儀がここで出来るように」と、建て替えた自宅から、祖父母と同じ様に親戚や近所のお世話になり、無事葬儀を終えました。が、母のショックは大きく、通夜には出られないほど憔悴していました。今までずっと父の後を付いて行くような生活をしていて、前を進む父が居なくなり何をするにしても「昔とは違うから」と言うようになりました。亡くなる前に父が「お母ちゃんが可哀想や」と言っていた事が、私の心の隅にずっと残っています。
 母が父の面倒を昼夜問わず看ているので、姉は見るに見かね「もうお母ちゃんを楽にしてやって」と言った次の日に父が人生を終えた事に、今もそんな言葉を言ってしまったことを悔いているようです。母の力いっぱいの介護に自分が耐えられなかったと話しています。