だいとう循環器クリニック

花みずき

夫婦の終楽章(後節)

揖保郡揖保川町  青山さん


「花みずき」第40号で療養生活をご紹介した、揖保川町の青山智子さんが逝かれたのは、昨年10月でした。その後、ご主人の勝己さんが、第42・新春号に「夫婦の終楽章(前節)」を寄せて下さいましたが、今回はその後半となりました。
心臓手術後もお幸せなご家庭でしたが、乳がんの手術後の再発から腰椎への転移のため下半身が麻痺して寝たきりの生活となられたのでした。
しばらく職場から離れて介護に専念されたご本人のされた夕食を一生懸命になって口に連ばれる智子さんでした。クリニックにとっても、清拭や治療方法の再検討や持統皮下モルヒネ注射の日常化など、貴重な体制を残して頂いた青山さんご一家とのお付き合いでした。
いま、お嬢さんが看護生として新い生活を踏み出されています。


 お世話になった方々に暑中見舞いと併せて、近況を添え書きした礼状をお送りしたところ、「すこし回復に向かわれているようで安堵しています。頑張ってください。」と励ましと労いの言葉を頂戴します。
  「お蔭さまで」と返礼しながらも内心では
  「本当に奇跡となって今の状態が統いてくれるのであれば」
と願ったものです。
 現実には、高度医療の施す術を失った者には障害だけが残り、、あとは確実に死への道程しかありません。やがて訪れる悲しみの前にささやかな束の間の幸せを与えてくれたのでしょう。
 季節の便りが暑中から残暑に変わる頃、臀部の痛みが激しくなり椅子に腰掛けたり、ベッドで座る姿勢もとれなく
  「寝たきりのまま世話になるだけで、ただ死の訪れを待つだけの生活はしたくない。」 といっもは気丈に振る舞う妻も、この時ばかりは落ち込みました。
 「それでは多くの寝たきり生活を余儀なくされながら精一杯生きている人々を冒とくすることになる。人間に値打ちのない生き方などない。与えられた環境の中で、活用できる両手を使って自分を生かすことがまだまだ出来るから。両手が使えなくなっても感謝の気持ちさえ失わなければ、お世話する人が生かされ、励みになるのだから。」と遠慮することなく気を楽にして介護を受けるようにと励ますのに必死でした。
 べット生活では、もともと大好きな読書とクロスワードに熱中していましたが、いつの頃からか、看護婦さんに習い始めて十センチ角の布地に針を刺していパッチワークに根気よく取り組むようになりました。
 身動きがとれなくなっても食欲は相変わらず旺盛で一度の量は少なくても地元で産れた新鮮なトマトやぶどうなど好きな果物を心ゆくまで味わっていました。  起き上がれない状態で嘔吐するのは苦痛すぎるので、錠剤よりも吐き気の少ないモルヒネの注射液に替えて持統的に皮下に注入することにしました。持続性注入装置に注射器を八時間毎にセットしなければならない制約はありますが、副作用が少なく嘔吐に苦しむ姿をみないで済むことはどんなわずらわしさよりも変えがたいものでした。
痛みから開放され吐き気が抑えられた状態は夢のようで下半身が不自由なことはどこかに忘れたような気分に浸っていました。
 今年の夏は前半が天候不順で、セミの声もあまり聞かれませんでしたが、赤とんぼがとぶようになってからミンミンゼミもツクツクボウシも一斉に鳴きだして季節感がはっきりしないまま、夏が過ぎ去ろうとしています。


 九月二日、尿量が急に少なくなって足の浮腫が気になりだした時、急に息づかいが荒くなり動悸が激しくなってきました。慌ててクリニックに連絡をとるとすぐに酸素濃縮装置が運び込まれ、酸素吸入によって呼吸が随分楽になりました。
 主治医がすぐに駆けつけて下さり、心不全ということで利尿剤を注射し心臓を圧迫しているむくみをとる処置がされると動悸もゆるやかになってきましたが、一時間毎に尿意を催すのでポ-タブル卜イレに腰掛けさせるのに大騒動でした。
 発作は治まったものの、二日間仰向けの状態が続けば瞬く今度ばかりは覚悟がついたのか、数日後に息子の直樹が自動車免許を取得するため二十日ばかり合宿に出掛ける際には「母親の顔を十分に見て出掛けなさい。」と申し伝えていました。「和服姿の写頁を撮っておけば良かった」と悔いながら、自分の葬儀に使う遺影用の写真を選んでいたのもこの頃でした。
 好物のお好み焼きを月に一度は食べさせていましたが、この頃から「これが最後になるのでは、これが最後になるのでは」と思えば料埋しながらも涙が頬をとめどなく流れて困りました。
 十日たって、体位を換えるのに左心房を下にした途端に息づかいが急に荒くなり二度目の心臓発作を起こしました。主治医の指示で利尿剤を増量して治まりましたが、排尿が頻繁になり私の負担がかかりすぎることから、あれ程嫌がっていた導尿を止む終えず処置することとなりました。
 月末には直樹も無事に戻ってきて、家族揃ってお好み焼きを食べることができました。
 また、お見舞いにいただいた松茸やロシアから水揚げされたずわい蟹が市場に出回り、いち早く力ニの鍋料理を味わうことが出来て、「食べることではもう思い残すことはない」と心から喜んでくれました。
 健啖だった食欲も好きなエビフライでさえ揚げ物は受けつけなくなって少しずつ何回にも分けたり、あっさりした水分の多いものを食するようになりました。玉子焼きもだし巻きにすれば口にしてくれました。
 「私の葬儀を営むまでに庭木の剪定を済ませておいて下さい。」と頼まれていたのですが、金木犀の花が咲き終わらないと剪定できないなどの理由をつけて延ばし続けていたが、季節はコスモスの花が部屋を飾るようになり、金木犀の甘い香りが庭に漂い始めていました。


 朝夕の冷え込みが厳しくなり、膀胱炎や体温調節が上手く出来ない為に高熱を出すことが多く献身的な看護に安心しきって全面的に身を委ねている妻の姿をみては、いい方々との出会いに感謝する思いでいっぱいでした。
 いつものように注射器を取り替えてから消灯しようとしたところ「消さないでくれ」と頼む夜がありました。その日を境に昼と夜とが逆転したように思えます。夢と現実の区別がつかなくなり、しっかりしていた意識も話がかみ合わなく真夜中に布団の端を引っ張り合って二人で綱引きに興じた時には童心に帰ってどんな夢をみていたのでしょう。
 会話がかみ合わない状態になっても、自分の死を予感していたのか時折はっきりした口調で、「ありがとうございました。すみませんでした。」と、身近な人に別れのあいさつをするようになってきました。
 衰弱は進み、尿の量が極端に少なくなってきました。看護婦の報告を受けた主治から余命五日問の知らせを受けたのは十月二十三日夜のことでした。
 呑み込みが難しくなり粉ぐすりは服用を止め、錠剤や食事は冷たい麦茶を口に含ませ、しっかり目を覚ませると飲み込んで昏睡状態で苦痛を感じることもなく、望みどおり住み慣れた自宅を終の住処として人生の終楽章を迎えました。
 抗がん剤の副作用で黒髪が次々と抜けていくのを哀れみ、早めの服用を中止してはとアドバイスを受けたお蔭で、女の命の黒髪を守ってやることか出来ました。
 衰弱した状態で従来の投与量ではモルヒネの作用が強いからと意識が混乱しないために投与量を減量していきました。
 患者本位の適切な気配りにより、減量したにもかかわらず痛みで混乱することも、苦しみもなく、最期まで途絶えることのなかったお見舞いの花々に囲まれ、皆々様の慈悲に看取られて、最期まで女のプライドを失うことなく、彼女らしく尊厳を守り通して、永遠の眠りにつきました。
 庭の片隅にセンリョウが小さな赤い実をつけていました。

 

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