だいとう循環器クリニック

花みずき


花みずきの皆さんに支えられて 

姫路市 Y・I


 昨夜から一睡もせず付き添って下さった介護士の竹下さん、真夜中にもかかわらず急を聞いて駆け付けて下さった施設長の田中さん、養父が入所した夜も当直だった大霜さん、 他、花みずきの方々に見送られて朝9時、義父の遺体を乗せた車は、故郷の但馬に向けて 出発した。
 2月3日、例年なら一年中で一番雪の多い時季である。生野峠に積雪はなく、運転手さんが「今年は珍しいですね。」と言った。関宮を過ぎる頃から山や田に雪が見られるよう になり、笠波峠のトンネルを抜けると、さすが雪深い土地だけにあたり一面雪景色だった。
 車の中に静かに眠る父に、 「やっと帰ってきましたよ、お父さん。でも、雪がいっぱい。春まで待って元気に帰っ て来たかったのにね。」と話しかけた。
 渋滞もなく、運転手さんが急いでくれたお陰で、2時間少々で家に着いた。
 すでに区長さんをはじめ、村の方々や姉夫婦が家を開けて待っていてくれた村の方々に抱えられた父は、自室の納戸へ落ち着いた。これで私の役はー応終わり、村のしきたり に従って次々と葬儀の準備が整えられていく。たくさんの方々があわただしく出人りし、 父と私の距離がちょっと遠くなったような寂しい気がした。

 父は38才で校長になってから定年まで17年間、校長を勤めた。退職して町会議員になってからも、文教委員長を勤め、教育一筋の人生であった。
 実家の父は、よく冗談を言う気楽な人であったから、この義父は堅苦しく (いったいどんな先生だったんだろう)と思ったりした。
 そのうち近所に住む教え子(80才を超えている)が「せんせえ―」と言って訪ねてくるのを聞いていると、イメージが随分違った。「先生はよく遊んでくれた。」「相撲を取っ てもらうのが楽しみだった。」とか「スキーが上手だった。」とか・・・・さっそうとゲレンデ に立つ青年教師の父の姿はちょっと想像しにくかった。本人も「僕は生徒がかわいい性分なので、クラス替えの時はつらくて泣いた。」と話してくれた。子供好きのいい先生だっ たのだろう。
 83才で仲の良かった義母を亡くしてから独りぼっちになったが、「この地がよい。」と言って、どこにも行こうとしなかった。時々訪ねてくれる教え子や親しくして下さる村の方々、近くに嫁いでいる姉達に支えられながら、家の前の畑を耕したり、山の手入れをし ながら心豊かに暮らしてきた。

 92才の春、前立腺肥大が悪化して救急車で病院に運ばれた。それが父の苦闘の始まりであった。高齢のため手術をしなかったが、バルーンをつけられて、その取り扱いに苦心 し、バルーンをはずしてステントを入れたがすっきりせず、不快感に悩まされ、精神的に も不安定になった。そうなると24時間の見守りが必要となり、兄弟で交替して介護に当たった。
 数ヶ月続けてみたが、それぞれの家庭もあり無理が生じてきた。町の介護センターの勧めで「老健」にお世話になった。しかし、「老健」は入る日数が限られており、冬が過ぎて暖かくなった春、父は念願のわが家に帰ってきた。
 身体の方も馴れもあって、まずまずの調子であった。季節もいいし、畑にでたり、川土手を散歩したり楽しい一刻だったろう。こんな暮らしがー番父にとっては良いには違いな かった。しかし、介護に当たる者の方には通いで、実家に来るには限度があった。長男で ある我々が"行く先"を考えなければならなかった。姫路市の施設をはじめ、県内の施設を見学して回った。なかなか「ここなら」という所は少なく、あっても入所持ち2年以上 でございます、という説明ばかりであった。
 町の介護センターの方が、「新しく鳥取に病院が出来て、長期の療養も引き受けてくれる。」と教えて下さった。やっと入院ができたが、やはり病院である。重病の方も多く、 父は軽い方なので、あまり手をかけてもらうことがなかったらしい。それが大いに不服で、 「何もしてくれないから、早く家に帰りたい。」と行く度に訴え続けた。そのうち病院からも「落ちつき先を決めて、退院して欲しい。」と言い渡された。
 ソーシャルワーカーの方がよく相談に乗って下さって、「グループホームがいいのでは」 と勧めて下さった。そんな時、大頭先生から花みずきのことをお聞きし、開所を心待ち にした。

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