だいとう循環器クリニック

花みずき

「あなた有難う」

京都市中京区(元・姫路市岡町)井内さん


 「あ、僕だ。入院しなくてはいけないと言われれた。」
術後一年の定期検診のために、日赤病院へ出かけていた主人からの電話の第一声が冒頭のような内容でした。 
 平成5年11月2日、午後2時すぎのことでした。
平成4年10月15日に腸閉塞(結腸がんによるもの)の手術を受け、一ケ月後に退院、以後順調に回復し、本人は元より私もいつの間にか主人はすっかり治ったのだという錯覚にとらわれかけていた矢先のことでした。
 「入院?」何かとても嫌な不吉な予感にとらわれながら、取るものもとりあえず、病院へと自転車を走らせました。
 診察室に入ると、主人はきょとんとした感じで立っていました。
 早速、検査していただいた先生からお話があり、 「虚血性大腸炎」という病名を初めて知りました。年齢、男女を問わず、最近よく見かける病名で、内科的治療で治癒するとのこと、 「心配ないですよ」との先生のお言葉に私たち二人とも飛び上がりたいほど嬉しかったのを覚えています。
 ところが、実はこの日から、辛く、悲しく、そして恐ろしい闘病の日が始まったのです。絶食治療とのことで、中心静脈栄養法という方法で高カロリーの点滴が始まりました。が、二週間以上たっても―向に退院の話が出てきません。その内、手術になるかもしれないとの話も出て、出血が止まらないのなら手術もやむを得ないのかと、それなりの覚悟をしていた時、今度は家族の人に病状の説明があるので、待機しているようにとの連絡が入りました。11月下旬のことです。
 既に帰宅していた私は慌てて病院に戻り、夜8時すぎ、主人と二人でお話を伺おうとしたとき、 「奥さん一人で先に来て下さい」と言われ、どういうことなのだろう、少し不審に思いつつもナースステーションに向かいました。
 お話の内溶は「がんがゴマをまき散らしたように腹膜に広がっている」という信じられないような内容でした。愚かなことに、がんがそんなにまで広がっているなんて、その時まで夢にも思っていませんでした。
 「虚血性大腸炎ではないのですか、いつの間にそれががんの末期になっていたんですか」頭の中はすっかり混乱してしまい、何をどう質問したのか良く覚えていません。
 「どんな顔をして病室に戻ればいいのだろう、とにかく笑っていなければ・・」真っ白になった頭の中でそれだけ考えていました。
 実は入院して10日位たった頃、勤務先に提出するための診断書を書いて頂いていました。主人はその中身をひどく気にしていて、家に帰った私が中を開けて「間違いなく虚血牲大腸炎って書いてある」と報告した時の「そうか、よし分かった」と言った、弾むような、嬉しそうな主人の声の響きが、まだ私の耳の中に生々しく残っていました。
 この日、主人にはお医者さまがどのように説明されたのか、よく覚えていません。
 その後、点滴治療が延々と統き、それに反比例するように主人の食欲は全くなくなっていき、頬の色は妙にポッと赤く血色良きそうに見えるのですが、身体の方はどんどん痩せていきました。ただ気力はいつも衰えることなく、「早く退院して学校へ行かなければ、12月は重要な会議がいっぱいあるから」とそればかり言い続けておりました。
 私は私で、 「今、自分に何が出来るのだろう」と必死に考え、追いつめられた心境の中で、 「そうだ、丸山ワクチンがある」という考えに到達していました。
 早速、横浜にいる姉に連絡をとりワクチンを取り寄せ、病院側にお願いして主人には内緒で注射して頂くことになりました。そして「これで少なくともがん細胞の増殖は止めれる。これ以上は悪くならない」と、闇雲に自分に信じ込ませ、「ここで挫けてはいけない。これからこそ元気を出して闘わなくては・・・」と自分自身に強く言い聞かせていました。
 その後、担当のお医者さまからのお話を伺っているうら、今後の見通しについて、「桜の咲く頃までもたせるのは難しい」との感触を得て、この時点でとにかく一度、主人を病院の外ヘ、つまり退院させてあげたいとの思いが―気に吹き出してきました。最悪の場合、2〜3日でとんぼ帰りになろうとも、後悔しない覚悟を決めて、私も主人もそれぞれの思いを込めて二人で退院を強く願い出ました。
 12月22日、念願の退院の日。周囲の心配をよそに、主人は自宅のアパートの階段を4階まで自力で上がっていきました。
 年末のクリスマスとそれに続くお正月の準備にと、何かと慌ただしく活気づいている町中を、私一人、真空ポケットに入ったような不安定な心持ちに襲われれながら、とにもかくにも、お正月用の買い物をすませました。
 その後も、外出時間を決めて買い物をさっとすませ、息せききって帰るという日々が始まりました。
 私には子どもがいませんが、この時はまさに生まれたばかりの赤ん坊を寝かせたまま外出した母親のような気持ちで、何か困ったことが起きていないだろうかと絶えず心配で小走りに帰ってきて、異常がないのを確かめてホッとするということの繰り返しでした。年末年始を無事に過ごし、1月5日になったとき、これで何が起きてもすぐに病院に連絡がとれると安堵したものです。

 1月に入ってから数回、主人は学校へ出向きましたが、大体半日で帰って来るように用心していました。食欲の方も少しずつ出てきて、自分の方から食べたい物を言ってくれるまでになりかけていました。その間にも知人、友人の方々が交替で見舞いに来て下さり、この当時は半身を起こしてお話出来る位、元気を取り戻していました。「春になれば、一緒に温泉へ行きましょう」と誘って下さる方に嬉しそうに応えたりしていました。
 ところが、1月28日、午後3時過ぎ、出勤していた学校から電話が入り、「井内先生が会議室で気分が悪くなられた,今、車でそちらへお送りしている」ということでした。 「しまった!もしかすると緊急入院ということになるかもしれない」と思いつつも、「とにかく顔を見てから判断しましょう」と焦る気持ちをおさえて帰宅を待ちました。
 6時過ぎ、外は真っ暗になった頃、運転していただいた方がまず主人の鞄とコートを持って駆け上がって来られました。主人はどうなっているのか、あわてて飛び出すと、あの何とか元気だった主人が、顔は青白く、蛍光灯の下で頬は一層こけて見え、 「ああしんどい」と、階段の手すりにもたれて立っていました。部屋に入り、身体を何とか横たえてから、近くのお医者さまに往診をお願いし、その内顔色も徐々に良くなり、これでひとまず緊急入院という事態は避けることが出来ました。
 この時になって初めて、今後どのように対処するのか、すぐに入院するのかどうか、真剣に考え始めました。主人にとって一番良いと思われる方法はどれか?苦痛から遠ざけること、そして一日でも多く穏やかな時を過ごせること、出来れば好きなビールを心おきなく飲んでもらいたいこと等考えているうちに、お医者さまに家に来ていただくというのは無理なのだろうか・・・と思い始めました。
 そして、今年のお正月の新聞で ”人間らしく生きる”。というテーマで在宅のことが掲載されていたのを思い出し、もう一度その新聞を取りだして何度も読み返しました。
「考えるより実行あるのみ」そう決心した私は2月4日、白銀町の大頭先生のところヘ駆け込みました。主人の現在の病状、アパートの4階に住んでいること、家族は私を含めて二人ということなどをお話し、私の一番聞きたかった「私のような者でも看病し通せるか」ということについて、特に質問させて頂いたのを覚えています。
 先生は一つ一つ静かにうなづきながら聞いて下さり、最終的に「大丈夫です。あなたに在宅で看病したいという強い意志がある限り出来ますよ」とおっしゃって頂いた時に私の心は決まりました。
 方法が二つある時は、どんなに迷っても一つしか選び取ることが出来ない。そしてどちらかの方法をとっても必ず何らかの悔いは残る、とういことを経験上感じ取っていましたので、どちらかと決めたら後は全力投球あるのみ。そうすれば後で後悔しても痛みは少し和らぐのでほないか、そう自答自問し、この日から大頭先生にご指導、ご助言頂きながら、とにかく渾身の方を込めて主人を痛みから、苦しみから守っていこうと決心しました。
 お願いに上がった当日のタ方、早速、先生は主人に会いに来て下さいました。主人には、どのようにして大頭先生の所に往診のお願いをしたか等、詳しくは何も話していませんでしたので、最初は「このそそっかしい妻が何をバタバタと走り回っているんだ」と思っていたそうです。結果的にほ、在宅でお医者さまに診て頂けるようになったことをとても喜んでくれました。
 「大頭先生って、なかなか面白そうな先生だな。」 主人の言葉にに「ああ良かった」と安堵すると共に、本当はこれから始まる病魔との闘いを前に、 「どうぞ一日でも多く、平穏な日を下さい」と天に祈る気持ちでした。

 

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