だいとう循環器クリニック

花みずき


絵を描くことを生きがいに

神崎郡市川町 政木 さん


 山の谷間からうぐいすの鳴く声が、あちらこちらから聞こえてまいります頃、3月14日 午後6時39分  夫は天国へと旅立っていきました。四十九日、百ヶ日の法要、初盆も無事に終え少し心も落着いてまいりましたが、まだ悲しみとさみしさで在りし日の姿や思い出が、頭の中を巡る毎日でございます。
 昭和61年 僧帽弁置換術を受けてから、しばらくは姫路の循環器病センターへの病院通いでしたが、それ以後大頭先生のお世話になることになりました。長い10数年間 おやさしい信頼のできる先生とお出会いできたと云う幸運、夫は本当に先生をお慕いし信頼いたして居りました。少し体の調子が悪くなると、すぐ「先生に電話をしてくれ」と申し、やさしくご指導を頂いておりました。
 40年間の長い教職を退職いたし、これからは自分の好きな絵を描けると云うよろこびと希望で、新しい仕事へのはじまりでした。まだその頃は無理なことは出来ませんでしたが、体も元気で、気カもあり、娘を連れての旅もよくいたしました。北海道、信州、四国等々遠くへ度々出かけましたが、もちろん絵を描くことが目的だったので、娘は自由行動で好きな所へ行き、自分はたくさんスケッチをしたり写真を撮ったりで、帰ってからは、気のむくままにキャンバスへと取組んで居りました。
 いつの頃からか木版画にも興味をもつ様になり、「木の素顔」と題し好きな木を見つけては、スケッチをし、写頁を撮り遠い所へと木を求めて出かけて居りました。版画に取り組むと、昼も夜もなく一生懸命でした。1枚の版画を仕上げるには、1ヶ月以上はかかります。小さな枝を1本1本書き下絵を描くだけでも大変な事でした。それを彫刻刀で彫っていくのですから‥・。 でも自分の好きな道ですから本当によくがんばれたものと思います。

 いつの頃からか体の様子も悪くなり、いろいろな疾患に見まわれ、病院通いが多くなりました。はじめの頃はまだ自分1人で通院いたしておりましたが、だんだんと様々な疾患が進行してまいり、入退院も多くなりました。特に下肢、腰がよわり杖を頼らねばならなくなり、病院通いも付添って行かねばならなくなりました。でも自動車の運転は出来、乗ることができたのがせめてもの救いでした。
 だんだんと自分の体の弱っていくのがわかり、もう2、3年はどんな事があってもがんばらなくてはと、口ぐせの様に申して居りました。体調のいい日はアトリエで絵を描いて居りました。大好きな坂本冬美の歌をききながら…。
 逝く1週間位前までは、近くの医院へ毎日のように自動車で1人通い、帰りがおそいと、心配して居りますと散髪をして来たと、きれいな頭になって帰ってきました。
 そんなに体の調子も悪くない様に思えましたが、亡くなる前夜位から少し気になる事もありましたが、亡くなる日も朝食もいつものように食べ、それからずっと眠って居りましたが話せば返事も返ってきますし、救急車で病院ヘ運ばれた時も看護師さんの云われる事には、はっきりと返事もして居りました。レントゲンを撮りに行く途中の寝台車の上で急変し、苦しいも痛いも云わず静かに逝ってしまったのが、心残りですが、せめてもの慰めでございます。人の命のはかなさをつくづくと感じた一瞬でした。本当に思いもよらぬ出来事でした。

 今ふり返って見ますと、在職中は教育一筋に生き、退職後は好きな絵と版画を描く事を楽しみに、生きがいとして思うままに描き続け、個展も3回、自分の思い通りに聞くことができ、最後の回顧展は教え子達が力を合わせて開いてくれ、大勢の先生方や知人に来て頂き、盛大に終りました。
 16才から絵を描きはじめ、死ぬまで鉛筆をはなさないと云う自分の信念をつらぬき通した夫にただただ感服いたして居ります。
 先輩、教え子たちに慕われ支えられ幸せな生涯だったと満足して逝った事と信じて居ります。身にあまる叙勲の勲章と賞状をいただき傍らに掲げた遺影が私達を見守ってくれて居ります。
 私も残された後わずかの人生を野や山に楚々として咲く花を愛し、育てる事を生きがいとしてがんばっていきたいと願って居ります。
 最後になりましたが、長い間大変お世話になりました大頭先生、看護師スタッフの皆様方本当にありがとうございました。

政木さんといえば「静かな豪気」そのお人柄には、いつも心うたれてまいりました。市川の川辺や各地の岬の風景の油絵、そして何よりも「木の素顔」の版画をしばしば待合室に飾っていただき凛とした空気感と繊細さに皆さんから感嘆の言葉がよく語られたものでした。ありがとうございました。

 

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