だいとう循環器クリニック

花みずき


母とともに

姫路市飾磨区 中島 さん

 母は、平成15年11月2日満88歳で死去しました。
 平成14年9月1日に、長年通っていた病院から肺がんらしいと知らされ、その後、国立病院へ検査入院しました。やはり、肺がんで、もう5×4.5cmになっていました。
 母のこれまでの生き方や86歳という年齢や、QOL(生活の質)を考えれば考えるほど治療法を迷い、ついに母に告知しました。「もう90に近いんや、このままでいく」という母の意志を大切に、これまで通りの生活をすることを 決断しました。10月下旬から大頭先生のお世話になりました。

 平成15年、2〜3月頃から咳が出始めましたが、気丈で、毎日、自分で作った下着や服を身につけ、二輪車で畑へ行き、代々続いた家を守り、つつましいほがらかな自立した生活をおくりました。咳がひどくなり、体調は思わしくあり ませんでしたが、それでも、9月の初旬には、赤穂で3泊し、大好きな海を少女のように眺めていました。気丈に、9月25日には目医者にも行ったのです が、その後、しんどくて眠れなくなる等、急速に弱っていきました。10月9日 、都倉の祭屋台に拍手をして、ホスピスに入院しました。10月11日に金山さんが見舞いに来てくださった時には「もう帰る」と言うほど元気になったのですが、ステロイド投与の副作用で口内炎に苦しみ、胸水もたまり、弱っていきました。それでも、見舞いに来てくださった方にはにこにことして手をあ わせていました。
 10月30日には、息をするのも苦しかったのですが、「人間は逞しく生きなあかん」と言い、11月1日のタ方には、息が苦しく歯ぎしりしながらも私に 「伊藤深水があんたを描いたらきれいやろう」と言ってくれました。その夜、 睡眠薬を服み、そのまま逝ってしまいました。

 私は、どうしようもない絶望感の中、これから厳しい日が始まるだろうと覚悟を決めた矢先でした。私に辛い思いをさせぬよう、さっさと逝ってしまったのだと思います。入院中、ずっとポータブルトイレを使用し、最後の最後まで母親で、私を守り励ましてくれました。
 母の死後、3ヶ月がたちますが、肺がんと判明してから、死去までの1年2ヶ月、母の神戸新聞文芸年間賞受賞、詩集の出版、詩書展の開催、旅行等々楽 しいことも多くありましたが、とまらぬ咳におびえた不安な日々や、しんどいのにいろいろしてくれたことを思い出すことは、まだまだ辛い作業です。
 ぎりぎりまで普通の生活をおくった母の気丈さは、私の現実を直視できない弱さに基づく希望的観測のせいではなかったか、もっとしんどさを理解してやっておれば、また、ホスピスで、私がついていながら、ステロイド投与の1日めから何故、うがいをさせるように気付かなかったのか、もし、母と私の立場が 逆なら、母はどうしてくれただろうか、私は母を守りきれなかったとの辛い思 いがあります。(でも、近頃、あの母なら、こんな私の思いを「何とも思とうへん、あんたが勝手に思とんや」と言っているかもしれないと少し思えるようになっています)
 とても、まだ介護されている方を励ませるような文を書くことはできません。 けれど、母の死後、時がたつにつれ、私の心に変化が起こっています。

母が残した

母が残したこうとくじゅの苗木
新しい葉が落ち着くのを見届けて
古い葉が落ちていく
命をつないで 希望をたくして

古い葉が落ちた跡は
茶色の枝に薄い緑の点となり
かさぶたができ
そこに葉があったことなど
気付かないほどに
徐々に枝の色へかわっていく

木は多くの別れを経て
大きくなっていく
私も別れの痛みをこえて
大きくなれるだろうか
母の残した苗木のように

母が逝って
3ヶ月になる

 ホスピスに入院中、特に、死ぬ2〜3日前から、私は絶望的な気持ちになり、死を扱った絵本や大頭クリ二ック発行の愛する人を失った方々の体験集を必死 で読みました。母が苦しむ現実や、母が逝ってしまうという現実を受け入れなければならない辛さを少しでも和らげようと、死は終りではないということを 自分に言いきかせようと、していました。
 怖れていたことがおこり、3ヶ月、私の中で読んだ内容が徐々に実感となっ てきています。もうあのまるまるとしたかわいらしい背中や暖い手にふれるこ とはできませんが、言葉をはじめ、多くのものを残してくれたと感じています。母の死は、私に多くの「気付き」を与えてくれています。死は終りではなく再生なのだ、悲嘆から再生へ、死は若木の養木となるのだと感じつつあります。
 私は、すきっときりっとしゃんとした生活をしなければと思いながら、ぼん やりとした時間を多くすごしています。が、それだけ、私は母と話しているのだと思います。
 自然が以前よりなお一層身近になっています。1月だというのに紅葉してく れたもみじ、春めいてきた陽の光、母とともに愛で、母の分も喜んでいます。 母が残したこうとくじゅの苗木をみていると次のようなことがうかびました。
木がやさしいのは、別れの悲しみをいっぱい知っているからかもしれないと 思ったりしています。

 これまで、何度も行ったことのあるレストラン「時」これは聖書の「すべて のことに時がある……死ぬに時があり‥‥」からきているのではないかと母の 死後、初めて思うようになりました。
 母のことで多くの人から親切にしていただきました。大学時代の友人は、身内でもできないくらい私を支えてくれました。私は人間関係に悩むことがよくありますが、あれほど私のことを大切に思ってくれる人がいれば、他の人にどう思われようとどうでもいいことではないかと思うようになりました。

 母の死後、「私は今でも亡母の使っていたタオルを持っています」「亡母の写真を脇机に置いています」をはじめ、多くの方が私にとっては思いがけない内面を話してくださり、私の悲しみに寄り添ってくださいました。多くの暖かさをいただき、私はこれまで、これほどの人の悲しみに寄り添うことができたのだろうか振り返りました。
 家の中でも畑でも、母の工夫がいっぱいあり、よくまあしたものだとただただ感心しています。今まで見ていたのに気付いていなかったのです。植木鉢に しても、私は浅知恵で動かしまわったあげく、やっぱり元の場所へ戻しています。陽の光、植物の性質を知っていました。以前より、「温故知新」ということをよく考えるようになっています。

 思いもしなかった所から、いっぱい水仙やチューリップの芽が出てきています。いろいろな所にいろいろな物を見つけます。工夫して使おうと貯めていたのでしよう。毎日、まるで宝さがしをしているようです。家にも畑にも母の希望があふれていると感じています。
 母の言葉の断片が、今、つながりつつあります。不思議なことに19年前になくなった父の言葉ともつながり始めました。戦後沈みゆく家をー生懸命、浮かし続けようとしていました。
 いろいろな場面で母の言葉がよみがえり、反省させられたり、励まされたりしています。母は「私は賢いことはないけど、アホでもない。自分をよう知っとうから、ほめられてもけなされても何ともない」という人でした。また「なんでそんなに頑張るの」と聞くと「せなしょうがない、責任や」と言いました。私は、庭に出れば「時期が来たら芽が出る。不思議やなあ」不安になると「で きる。どないもあらへんがな。べっちょうない」の言葉を思い出します。この原稿を依頼された時も、「人が言うてのは、できると思てやから、受けたらええ、やってみることや」と30年前、私に言ってくれた言葉を思い出しました。
 母のように大切なものを守る強さを持ち、自然体で生きることができればと思っています。

中島まさのさんはクリニックにも素晴らしいものを沢山残して下さいました。 「大地の母」という表現が、ぴったしの方やなあと私は感じてきました。母娘で共同の詩を作り、表現されるという希有な詩書展を拝見しました。
そしてそれ以上に、中島まさのさんは娘さんの女子さんの全存在を照らし続けておられたのだなあと感動しています。

 

| INDEX |
Top


だいとうクリニック