だいとう循環器クリニック

花みずき


四つの死を見つめて

姫路市白浜町  黒岩さん

 昭和63年8月31日に「親父が肺がんで入院している。いつ亡くなってもおかしくない状態と言われている」と兄よりの電話が入りました。翌日、あわてて仙台に帰った私の顔を見て父は「オウ、来たのか」と言いました。想像していたより元気な父でした。夜に付き添い、体をさすること位しかできない私でしたが、「もういい、疲れるから寝ろ」と気づかってくれる父でした。そうしているうちに二週間が過ぎ、父は段々に弱っていき、危篤状態に陥りました。人一人が亡くなるという事はこんなに苦しまなければならないのかと思う程、辛く長い時間に思えました。

 同じ年の11月に義父が亡くなりました。62年に肺がんの手術を受けましたが子供達で相談して病名は伏せました。病巣は取り除きましたが治療の過程で髪が抜けたりして本人の知る所となりましたが、一度たりとも病名を尋ねられたりした事はありませんでした。しかしながら、義父は「病院には入れてくれるな。家で死なせてくれ」と言いました。用事で義父の枕元に行った時、頬を伝う一筋の涙を見た時もあります。何も言えなかった私でした。言いたい事も沢山あったでしょうけれど、全て自分一人の胸の中にしまい込んでしまった義父でした。同じ年に二人の死に立ち会う事になりましたが、病院で生かされていた(そう思うのですが)仙台の父より安らかな死の訪れだったような気がします。  

 年号も平成に変わり、9年8月に義母が肺がんの手術をしました。手術は成功しましたが、いずれ訪れて来るであろう時の事を考えると義父の時のような繰り返しになる事は辛いと思いました。
 そんな時に姫路でターミナルケア・在宅ホスピスに取り組んでおられる大頭先生を知りました。お忙しい中、私達家族の為に時間をさいて頂き貴重なお話を聞かせて頂きました。


告知したより告知しない弊害の方が大きい。
介護する側・介護される側 が同じ土俵に立たなければ、心よりの介護はできない。

というお話でした。私だけがクリニックに出かけ順番をとり、先生に現状・今後の事など相談にのって頂いた事もありました。その時も恐縮する私に先生はニッコリされ「いつでも相談に来て下さい」とおっしゃって下さいました。その後、義母は骨の数カ所にがんが転移し、放射線の治療もしましたが体力的にも無理が生じ、11年8月より大頭先生の往診が始まりました。往診が始まり痛みを訴える事もなくなりホッとしたのもつかの間、もの静かな義母が荒れ出し、私達家族にとって思いもかけない事が次々におき大変な日々が続きました。夜に眠れない事が一番辛かったです。大晦日、年越そばを食べ足浴をしていつも通りに眠りについた義母でしたが、いつも騒ぎだす時間に静かだったので「今日は静かだな」と主人と話しながら私達夫婦も本当に久しぶりに眠ってしまったのでした。朝8時に起こした時に異変に気づきました。元旦の事です。お葬式も何とか済み七日毎のお参りをしていくうちに、義妹達の態度が変わっていきました。介護やその後の事象についての考え方の違いがでてきたのでしょうか、ギクシャクした関係になってしまい私達夫婦の心にも影を落としました。

 そのぎこちない関係に修復のきざしが見えたのは皮肉にも主人の膵臓がんでした。義母が亡くなってから一年と四ヶ月しかたっていませんでした。体調を崩して入院していた病院でわかったのでした。転院先の医師から「一ヶ月位」と言われた時はとても信じられず何度も聞き直しました。けれどいろいろな症例からの診断だったのだと思います。痛みを抑えるだけの患者を大病院が受け入れてくれるのだろうかと心配はあったのですが内科病棟への入院になりました。それからが普通でないのに普通を装う生活が始まりました。娘達と抱き合って泣いた事もありました。嫁いだ娘が家に泊まって家事をしてくれました。運転免許の更新に行った時はなかなか字が読みとれず「この次はメガネが必要だな」と膵炎を疑わない主人でした。医師から「今なら家に帰れる状態です」と言われ家に帰りました。「本人の体調が良ければ安心させる意味でも外来にきて下さい。ただ再入院の時は覚悟して下さい」と言われての退院でした。 家に帰り、リラックスした主人を見るのは幸せでした。長女は、自分の家にひきあげ毎日のように訪ねて来ました。主人は「小さいのを連れて無理せんでもいいのに」と言いながらも初孫の来るのを楽しみにしていました。下の娘とナイターを見ながら楽しそうでした。灰皿がアッという間に吸い殻でいっぱいになりました。口では「いくら何でも吸いすぎだよ」と言いながらも「もう煙たいなんて言わないから吸いたいだけ吸いよ」と心の中で泣いている私でした。外来の受診をした時、通院するだけで精一杯の私に「血糖値のノート持ってきたか」と聞く主人。「アッ。ごめん忘れた」「この次は忘れずに持ってきて今回の分も記入してもらえよ」と主人。この次の外来はあるのだろうかと思う私。    

 家へ帰ってから10日目、体調が悪くなり再入院。ベッドの上で点滴を受ける主人の顔にはホッとしたような表情も見られました。もともと口数の多い人ではなかったのですが更に寡黙になりました。ずっと手を握りあっていましたので、こちらが話しかけると手を握り返して来ることはありましたが、自分の体の中におきている異常におそらく気がついていたと思います。でも、口に出して尋ねる事もなく、又その返事が恐かったのかもしれません。義父が亡くなった時「親父は偉かったよな。ワシもあんなふうでありたい」と話した事がありましたが、その言葉どおり、近親者に看取られての旅立ちでした。

   四つの死は皆それぞれに尊厳のあるものだったのではないかと思います。人生の幕引きはどうすべきか、又、どうしたらいいのかも考えてみましたがあまりに大きい問題でわかりません。三つの遺影を見ていると私が悲しかったり辛かったりすると悲しそうに見えますし、うれしい時は笑ってくれているように見えます。時々落ち込む事はありますが、いつも周りで支えてくれる人と、それぞれに関わりのある人々の、有形無形の励ましを得て前を向いて歩いていけるのだと思う私です。いい古されている言葉ですが人は決して一人ではないのだと信じて。 

−追記−
 ヘルパーとして働く毎日、すてきな方との出会いがありました。がんに侵されながらも常に前向きでおられる女性です。この三月末、ご主人の転勤でお別れしました。これからも決して平坦な道ばかりではないと思います。山あり谷ありの道だと思います。でも、その山がより低く、その谷がより浅くある事を祈ります。そして必ずはい上がってきて下さる方だと思います。いつまでも輝きを忘れないでいて下さい。再会できる事を楽しみにしています。

短い時の流れの中で、4人もの身近な方々の療養生活と対面することとなった黒岩さんです。その経験を生かしてヘルパーとして生活に困った方々に心のこもった支援を続けておられますね。
「追記」の女性は実は私達のクリニックからも在宅支援に出向いていましたが、黒岩さんの励ましが強い力として働いていたようですよ。    大頭 

               

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