だいとう循環器クリニック

花みずき


私の嫁ハン死んじゃった

姫路市船津町  ひぐち さん

 私の嫁ハンが死んだのは4月30日、75歳だった。
 結婚生活56年、19歳の若さで私と結婚し、私の両親と弟二人を愚痴ひとつこぼさずに面倒をみてきた彼女を味方である亭主の私は嫁の勤めやと邪険に扱いました。
 私が彼女を伴侶として大事にしなければと思ったのは定年で会社を退職してからです。その頃から目を患っていた彼女に代わって家事雑用を私がすることになりました。「あんたがよう動いてくれるから助かる」という感謝の言葉を彼女の口からよく聞きました。私は「あんたの若い頃の苦労に比べたら何でもない。夫婦は助けあうのは当たり前や」と言い返していました。その嫁ハンが2月14日自宅で倒れ、救急車で国立病院に運ばれました。
 医師の診断の結果肺がんの末期で、あと二か月の命だと告知されました。但し抗がん剤をうつ治療すれば六力月は延命できると言われました。私は長い間、苦労かけた嫁ハンを、何としても助けたい。しかし抗がん剤をうって苦しい思いをさせたくない、遅かれ早かれ助からん命なら自宅で安らかに死なせたい、そのためにどなしたらええんや、それを大頭クリニックの先生のお智恵を拝借 し在宅で介護することにしました。週一回大頭先生の往診、訪問看護師の派遺と週三回ホームヘルパーにきて頂いて、嫁ハンも満足し、私もこれなら在宅介護が統けられるという自信がつきました。
 その矢先、今度はがんが腸に転移し、腸閉塞になりました。そして松浦病院に入院しました。主治医の意見では、長くて一カ月、早ければ明日の命が危ないということでした。そんな嫁ハンを放っとくわけにいかない。寂しい思いをさせたくない。そう思って、病院で寝泊まりをすることにしました。そして彼女の手を握ったり、体をさすったりCDの音楽をかけたり、本を読んだりしました。しかし、食事は全然とらず点滴だけで段々身体も衰弱し、私の話しかけにも反応を示さなくなりました。死ぬ二、三日前でしたか、彼女がかすかに口を動かしました口元に耳を寄せますと、「帰りたい、帰りたい」という訴えでした。私は主治医に家に帰らせて欲しいと相談しました。でも答えは明白でした、いざというとき、医師の対応ができない自宅介護は医師として賛成できないということでした。そして彼女が、永眠した30日の日を迎えました。 朝の7時頃「家に帰ってくるからな」と声をかける私に彼女は大きくうなづきました。その日私はなにかと雑用に追われ夕方のバスに乗り遅れました。それが彼女の死に目にも会えなかったことだと今も深い悔いを残しております。ただ主治医の話では昼過ぎまで元気で、4時ごろから容体が急変し、苦しまずに息をひきとったと聞き一縷の安らぎを得ました。
 さて、葬儀は嫁ハンが生前、身内だけでひっそりしてほしい、ご香典はご遠慮したいといっておりましたので自宅で近親者だけの葬儀にさせて頂きました。皆さんに大変お世話になりまして有難うございました。厚く御礼申しあげます。私は嫁ハンの介護を通して命の貴さ人情の温かさを知ることができました。愛するものを失った寂しさと悲しみはすべての人に共通するものです。私はその悲しみをのりこえて介護のなかで知り得た貴重な体験を今後の活動のなかで生かしていきたいと思っています。  そしてそれが私を支えてくれた嫁ハンヘの何よりの供養か、と-----。  


私の雑記より

ひぐち みやこ

 一人で旅してみたい。何時のころか私はこん なことを想ふようになった。
 女学校の卒業間近いころ、学徒動員で葺合区 の川崎製板工場の倉庫の二階の作業場にいたとき、友達と交わした約束、「平和になったら北海道へ行きましょう」と堅く約束したのだ。
 卒業を目前にした昭和20年3月17日の夜、神戸の街は焼野原と化した。見渡す限りの紅蓮の炎と動ごめく黒い人影、この世の地獄絵さながらの光景、卒業式も友との北海道行きの約束も、家財道具もろとも焼けつきてしまった。

 終戦後はじめて神戸へ友を訪ねて行った。
 さすが大都会だけに復興は早く坂道の両側は、戦前のように家がたちならんで、あの夜の空襲などうそのようにおもえる。元町駅から北へ山手へ登る海洋気象台近くの友の家は戦災からのがれて昔のままの二階建てのどっしりとした家。その前に立ったとき、自分の姿が、本当にみすぼらしく、おそるおそる呼 び鈴を押したのだった。友はえび茶のスーツに身をつつんでいた。「この服、自分で仕立てたのよ」と言うのを聞いて、もうこの友との間には随分隔たりが出来てしまったのだとおもった。そして、戦争さえなかったら、父さへ死なずに生きていてくれたらと、どれほど情けなくおもったことか。
一人で遠くへ行きたい。旅をしてみたい。あちら、こちらを見て歩きたい。いつか、私の心のなかにこの旅というものが巣くってしまって、今でも旅をしたいとおもうのである。でも新婚旅行へも行かなかった私、一人でどうにも自分の気持、感情がおさえられないとき、私は神戸の海や山を想い出す。すると、心がしずまっておちつくのだ。共働きの時も職場へ欠勤の電話をして、家の誰にも告げずに神戸へ行って一日中歩きまわった私。

 いろんなこと、過ぎた日のこと、その中の想ひ出の人は浜口さんである。色白のぽっちゃりした、その人のお父さんは早稲田大学出身である。学歴のない父をもつ私は恥ずかしかった。私の父の時代は小学校は三年までだったという。父は独学で、講義録で勉強したという。
 色白の鼻筋の通った美人の浜口さんは一人っ子でわがままいっばいに育った人らしい。貿易商の一人娘として勉強もよく出来、英語は早大出の父仕込みだという。金持ちで学のある父親をもつその人を私はどんなにうらやましくおもっただろう。その人と私が友達になったのだから、他の級友はびっくりしたらしい。性質の正反対のもの同志が友達になったからだけれど、私は五人姉妹のまん中だものだから、その人のわがままを通してあげていたのである。赤い縦じまのデシンのワンピースに赤いネックレス、白いつば広帽子の浜口さんと、白いレースのワンピースに青いつば広帽子の私は一緒に舞子の浜へ泳ぎに行ったのである。それは浜口さんの家の方が招待して下さったのだ。その時、白いレースのワンピースをねだって母に新調してもらったのである。そのワンピースによく似合うようにと、せいじ色のネックレスを私にくれたのが浜口さんである。私と色違いのお揃いにしましょうというのだ。うれしかった。でも、こんなものいただいていいのかしらと迷ったものである。母は貿易のハネものだろうといっていた。毎日曜日に電話でよびだされるのには閉口したけれど、一人っ子だから淋しいのか、片時も私を離さないのである。級友はクラスSだと騒ぐので私も困った。浜口さんは私より年は一つ上である。 でも持物は、浜口さんは赤いもの、私はじみな色ばかりだった。バレーボール部に入部して、放課後練習していた私を退部させたのも彼女である。
 学徒動員で四年生は半分に分かれた。そして半分は工場現場へ、半分は事務 へと分かれたのである。何ヶ月したら交替ということだった。私は現場へ、浜口さんは事務の方へ、そしてそれきり、私の前からこの人は消えてしまったのだ。
“ダイヤ密輸”“売国奴”と浜口さんのおとうさんの写真と一緒に、新聞の第一面をぎっしりにぎわしたのである。彼女の家に三国人がいたのはたしかなの だ。でも密輸だなんておもいもかけなかった。その後、加納町の浜口さん宅へ 行ってみたが、表札は違った名になっていたので、あきらめて帰ったのだ。    

 そして、空襲 神戸との別れ 

   昭和23年12月、私のかぞえ年20才で結婚した。そして何年か過ぎて、神戸の新聞会館で山陽電車の慰安会があったとき、子供を姑に預けて秀と二人で行ったその帰途、電車が飾磨に着いたとき銘仙の着物をきて、金髪の少女を抱いた人が私の方をみたのである。私はびっくりした。 浜口さんである。連れの外人と降りてしまった彼女をみて、あの外人と結婚したのかしらあの腕に抱いて幼児はあの人の子供だろうか?学徒動員の時、別れたき りの彼女との思いがけぬ再会。でも一言も口を聞いた わけではないが。浜口さんは飾磨に住んでいるのだろ うか、網干線に乗り換えたのかしらとしばらくそんなことばかり思った時期もあったけれど、生活と育児に追いまわされていつしか忘れてしまっていた。姑達と別居し、親子四人お豆腐屋の借家にいたとき、太陽生命とか太陽貯金とかのひとが三人来たのだった。ちょうど子供は学校、秀は会杜、私一人お昼のテレビドラマを見ていたのである。その時の三人の婦人のなかに浜口さんがいたのである。紺地に赤い花柄のツーピースを着たその人、でも私は過去を口にしなかった。浜口さんは「奥さん、私達と一緒に働きませんか?」と言ってくれたけれど私は子供を口実に断ったのだ。それっきり彼女とは逢っていない彼女がいまどんな風な暮らしをしているのか、それはわからない。でも、昔は昔。私だっていつまでも学生時代の苦労をしらなかった時代のことばかりおもっていられないのだから。
 終戦後はじめて神戸へ行ったのは石橋さんと会うためである。ブリヂストンの会社と関係のあるその家のお嬢さん、戦災にも逢わなかったその家は学校時代訪れたときと同じ海洋気象台を見下ろす高台にあった。どっしりとした2階建てのその家の門柱の前で私は自分のみすぼらしい銘仙着姿が哀れだった。卒業後、名古屋に行っていた彼女は自転車に乗る事を覚えたと話した。新調らしいえび茶のスーツがよく似合っていたのでほめると、「これは自分で仕立てたのよ」と言う、私はびっくりした。父が死に、母と姉と弟と自分の収入で生活している私は洋裁も和裁も習いに行けなかった。和裁は母が教えてくれたけれど、物の不自由な時代で洋裁の材料も布地も私には手が届かなかったのである。もうこの人ともお付き合いは出来ない、もう段違いに開きが出来てしまったと思ってそれより文通もよしてしまったのである。離れるものは日々にうとし。

 私は小さい時から、ずっと、父にも母にも姉や弟にも必要以外口を聞かなかった。特に父とはしゃべらなかった。何を聞かれても、言われても首を縦にふるか、横にふるかである。こんな私に学校で大勢、友達が出釆るのを父母や姉はびっくりしていた。

 西宮へ遊びに行ったり、須磨の潮見台の友の家へ行ったり、青葉町の友を訪ねたり日曜日ごとに、私は遊びに出ていたのである。海員会館で友と一緒に“風の又三郎”の映画を見たり、安藤さんと一緒に摩耶山に登ったり、浜口さんと布引の滝へ行ったり、いろんな友と、いろんな所へ行ったあの頃がなつかしい。  

樋口さんの「私の嫁ハン」のお若い頃の憶い出の記です。戦争によって生活が激変する中で揺れ動く少女期の交友録を読ませて頂きますと、文学少女という芳香が立ち昇ってきて、この文章やその書き手の奥さまの心情を大切にされてきた樋口さんの心が静かに伝わって来ますね。    大頭 

               

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